PC7の幻影を追って
文・絵: 安藤雅浩
1945年8月18日 三河湾上空:
米海軍空母エセックスVF83戦闘飛行隊所属の2機のグラマン艦載機は、三河湾上空の空域パトロール任務を終了した。彼らは知多半島をバックに大きくバンクし母艦への帰投を始めたところだった。終戦直後の日本本土上空には日本機の姿は一機も見えない。地上には爆撃で無残に破壊された名古屋の市街地と工業地帯が広がっていた。
「ヴァイキング2からヴァイキング1へ、大尉、9時方向、下に何かいます!」。マクファーソン大尉は目をやった。眼下にきらりと光るものが。小型機だ!海上から超低空を一直線に本宮山の南稜を横切り内陸部へ向かっている。この空域に米軍機は我々の2機だけのはず。味方機ではない。ましてや日本機は民間機も含め全面飛行禁止となっており、飛行場もすべて連合軍の管理下にあるはずだ。
やつはどこから来たのだ?「ヴァイキング1からアンダーマイン、未確認機を発見、追跡態勢に入る。」あの低高度では母艦のレーダーには映らない。その機体に接近するにつれてマクファーソン大尉はそいつがこれまで見慣れた日本軍機ではないことに気付いた。シャープな流線形の機体は深紅に塗られ、日の丸は描かれていない。日本軍の新型機か?軍用機にはみえないが・・。しかし、なんという美しい機体なのだ。 マクファーソン大尉は一瞬我を忘れてその機体に見入ってしまった。 とその時、そいつは気づいた。機体を小さくバンクさせ、一気に加速を始めた。 速い!まるでレーサーの・・。F6F戦闘機では追いつけない。そいつは、地形を熟知しているように雲の中に消えた。
1928年イタリア:
1920年代は飛行機の黄金時代だった。新しい民間航空路の開拓や冒険、そして新記録への挑戦の時代だった。第一次世界大戦を経て、飛行機が戦争の道具から人々の暮らしの道具へと変わる夢と希望の時代であった。そんな中、ヨーロッパでは最も有名な飛行機レースが開催されていた。シュナイダートロフィーコンテストだ。英国のジャッキー・シュナイダー卿が水上機の技術革新を目的に提唱し、1913年から1931年まで、欧米各国が国の威信をかけて競い合った一大水上機レースイベントである。人々は熱狂した。
そんな時代、日本は欧米の先進航空技術を学ぶため、次世代を担う優秀な航空技術者を、国費や社費でドイツや英国に送り出していた。そんな中で、高藤剛だけは一人異色だった。イタリアの新興航空機メーカー ピアッジオ社で見習い修業を積む身だったからだ。彼は帝国大学出の一流航空機メーカーや軍関係で働くエリートエンジニアではなかった。信州の片田舎の名も知れぬ小さな飛行機工場の技師だった。3年前亡くなった父親はトラクターの修理などをしながら自力で飛行機の研究と製作を始めた。浅間山の南稜の大地に小さな滑走路を設け、急病人を運んだり、村々を結ぶ、小型飛行機の時代が来ることを夢みていた。高藤がイタリアに修行に来たのも父親の夢と意思を受けつぐ決心したからであった。
ピアッジオ社での彼の上司ジョバンニ・ペナは異色の設計者だった。
今、ペナのチームは目前に迫る1929年英国のカルショット湾で開催されるシュナイダ―トロフィーコンテストに向けて、イタリアチームが期待をかける秘密兵器の突貫工事中であった。「PC7」。それがその秘密兵器の名前だ。前例を見ない斬新な発想と革新性をもったこの水上機は今、生みの苦しみの中にあった。技術の結晶とうよりは芸術品といってよいほどの美しさと、繊細さと、そして凶暴さを内包した機体であった。
今回のレースでは、英国と米国チームは前回よりもさらに強力なエンジンを装備した機体を投入してくる。フランスも新鋭機を準備している。だが、それらの機体とPC7には決定的な違いがあった。それはPC7が水上機でありながらフロートを全く持っていないことであった。ペナは重量がかさばり空気抵抗を大きく受けるフロートを大胆にも抹殺してしまったのである。その代わりPC7は3枚の小さなハイドロフィン(水中翼)を持ち、水上滑走時は後部のスクリューで水中翼船のように滑走し、飛行時は機首のプロペラで推進するのである。850馬力のイソッタフランチーニ製V12液冷エンジンを装備し、実際に飛行すれば時速600km以上を出す目算であった。その性能は、同じイタリアチームから参戦する歴戦の主力、マッキのマシンM52やM67を凌駕していた。前回1927年のコンテストでは英国チームに大きく水をあけられていたイタリア航空省がPC7に大きな期待を寄せていたのはいうまでもない。
開発はさまざまな困難に直面していたが、深刻な問題はテストパイロットのほとんどが離水テストの操縦を拒否してきたことであった。離水時の機体不安定性と着水時に機体が前のめりに転倒する危険性を指摘してきたのである。ぺナは、機体の重心位置を後方に持つよう設計されたPC7はそのリスクを極力抑えてあり、着水侵入角度を3度以上に保てば問題なく、逆にハイドロフィンは揚力(機体を浮き上がらせる力)を発生させると説得した。だが、パイロットたちはPC7の挑む魔の領域に恐れを抱いていた。結局、ベテランの勇士トマッソ・ダル・モランがテストをすることになった。
一方、技術面でも様々な問題に直面していた。その中でも特にトラブル続きだったのが、動力伝達機構だった。 PC7は離水時に、エンジンの最大出力を保ったままスクリューからプロペラにスムーズに動力を受け渡す微妙なクラッチ操作を必要としたが、ガルダ湖で実施したテストでは 水中翼が機体を水面に持ち上げ、機首がプロペラ回転位置まで上がったものの、クラッチの機械的なトラブルで離水は失敗に終わった。
また、別な課題もあらわになった。操縦管を操り機体を安定させながら、エンジンスロットルレバーを操作しつつ、プロペラのロック機構をはずすと同時にスクリューからプロペラへと動力を伝達するクラッチを操作することは、モランに言わせると、「機体を完全にコントロールするには手が三本以上必要」とのことであった。
高藤剛は、この問題の解決をぺナから指示された。イタリア人の優秀なエンジニアは大勢いる中で、彼が指名を受けたのはそれなりの理由があった。斬新なコンセプトやデザインセンスはイタリア人にはかなわない。彼らのDNAはルネッサンスの時代から脈々と受け継がれたものだ。しかし日本人の細部に対するこだわりと、問題解決に対する地道な粘り強さはイタリア人にはなかなかないものだった。高藤は1年前にピアッジオ試作機の尾翼の振動問題を解決したことが評価され、ぺナから厚い信頼を得ていたのであった。しかしレースまでには、3ヶ月しかないのである。この致命的な問題を解決することが物理的には到底無理な要求であることは、ぺナ自信を含めチームの誰もが分っていた。そんな中でぺナはあえて高藤を指名したのである。
高藤はイソッタ・フランチーニのエンジン設計者ギスチーノ・カタネーオ技師の元を行き来して、寝る間も惜しんで対応に当たり、小型で且つエンジンの最大出力域と連動させることができるスロットル連動式半自動のクラッチの設計に没頭した。試作工房のアルゴー二のチームも協力を惜しまなかったが・・・。結局、PC7をイタリア航空省が設定した期日までに完成させることは出来なかった。前例のない革新的な技術は先達から学ぶ事が出来ない。全てを一から地道に検証するにはあまりにも時間が無さ過ぎたのだ。結局、イタリア航空省は1929年のシュナイダートロフィーヘのPC7のエントリーを断念するようピアッジオ社に通知してきた。それを受けた会社側の開発中止命令にも関わらず、ぺナはPC7の開発を止めなかった。その後1年間にわたり開発を続行したのである。ぺナは理想を実現しようともがくこの日本人青年に自分自身を重ねていたのかもしれない。PC7は日の目を見ることもなく航空史の陰に消えていった。
その後、1931年シュナイダートロフィーは,英国のスーパーマリン機が制し最後の幕を閉じた。人々が飛行機に夢を託した黄金時代は終わったのである。ヨーロッパ全体を不穏な黒い影が覆い始めていた。イタリアもムッソリーニのファシスタ党が実権を掌握し、飛行機は再び戦争の道具であることを求められていた。
1943年5月 (フランス ボルドー)
ナチスドイツの占領下にあるフランス ボルドー。
イタリア海軍潜水艦「コマンダンテ・カンぺリー二」の艦橋には2人の日本人がいた。デッキではイタリア人水兵たちが大きな木箱をクレーンで積み込んでいた。作業を見ながら背広姿の外交官らしき男が言った。「あのガラクタに目をつけたのにははっきりいって驚きましたなあ。」田辺海軍中尉はそれには答えず、イタリア空軍省を通じ、あの荷物を日本へ持ち帰るため、あわただしく関係部署を飛び回っていていたこの数週間を思い返していた。
高速水上戦闘機の技術を入手するためドイツとイタリアに来ていた田辺中尉はイタリアの航空機メーカー、マッキの技術主幹マリオ・カストルディからピアッジオの機体の話を聞いていたのであった。早速ピアッジオ社を訪れた彼は、第3倉庫の片隅で丁寧に梱包されひっそりと眠っていた飛行機の胴体と設計図を見つけたのであった。埃ひとつない深紅の胴体は軍用機ばかり見慣れた彼にはあまりにも美しく思えた。そして何より驚いたのは、見事な自動クラッチの設計図と、その片隅には日本語でメモが書かれていたことであった。この機体が14年前のシュナイダートロフィーレースに向けてイタリアが製作していたPC7。そしてそれに関わっていた日本人がいたとは…。
アルミニウムや良質の水銀、精密機械と光学器機そして赤い機体の一部と設計図を積みこんだ「コマンダンテ・カンぺリー二」は1943年5月 ボルドーの岸壁を闇にまぎれ出港した。その後、連合軍の索敵警戒網をすり抜け、喜望峰のはるか南を通り2ヶ月後に目的地である日本軍占領下のシンガポールに無事到着した。
1945年6月 愛知県
1年前、海軍省に呼び出された高藤剛は、PC7の技術を基に、高速水上戦闘機の開発に協力するよう命令を受けた。これまでも周りを海で囲まれた日本の本土防衛に水上戦闘機が海軍省で検討されてきたが、フロートを持つ下駄ばき水上機では時速400kmがそこそこであった。高速を誇る米国の戦闘機の相手になるはずもなく、今や水上機といえども高速性能が要求されていたのであった。田辺中尉がヨーロッパから持ち帰った情報をもとに検討した海軍省は 水中翼装備の高速水上戦闘機の開発を「S7計画」として発令したのである。S7計画は水上機の開発製造で経験のある愛知航空機の協力を得て、田辺中尉を中心にしたチームが組まれ、高藤剛は技術主任として参加を要請された。PC7の基本構造を基に軍用機としての改造を加え、海軍省が求める性能を達成することが目標であった。エンジンは1200馬力のアツタ21型V12液冷エンジンを使用し、新型の自動折りたたみ式3枚プロペラと15年前に高藤が自ら開発した自動変速クラッチをもとにした機構を装備し、時速700kmを目標としていた。米軍の爆撃が次第に激しくなる中、疎開した海沿いの小さな試作工場で開発は急ピッチで進められた。PC7の原型に近い飛行試験用の試作機の完成は間近だった。
そんな折、田辺中尉から呼び出された高藤は、衝撃的な話を聞かされた。
「高藤さん、今しがた海軍省より命令があったそうだ・・。S7試作機は中止し、車輪をつけて特攻機に転用せよとのことだ・・・。こいつは、飛べない運命を背負って生まれて来たのかもしれんな。」
何もかもが時代の狂った波にのみこまれていた。
高藤剛は眼を閉じて黙って聞いていた。
遠くで爆撃警戒警報が鳴っていた。
1945年 8月18日 三河湾 知多半島
ひとつの時代が終わり、新しい時代が始まろうとしていた。時代と時代の狭間、覆いかぶさっていた古い時代の重しが取りのぞかれ、次の時代の重しがのしかかるまでのその一瞬の狭間でしか、チャンスはないのかもしれない。嵐の中にわずかに垣間見る青い空のような、神が与えてくれたこの一瞬。
ぺナや親父がいたらなんと言うだろうか。
「今度こそやってみせるぞ。」高藤剛は自分自身に言った。
「田辺中尉、機首が上がったらキャブレータのインテイクを全開にしてください!」
「了解だ。こいつは戦闘機なんかじゃあない。レーサーなんだ。16年前の再現なんだな。今回は負けんぞ。それから・・」とコクピットの田辺は言った、「俺はもう中尉じゃない。」
彼の眼の先には、2か月前B29の猛爆撃を受けて壊滅した愛知航空機の工場群があった。
「いいですか、伊那谷を北上し、諏訪湖へは南から侵入してください。着水侵入角度に気をつけて!」
「まかせとけ。」
若干大きくなった機体だが全体のフォルムも塗装もまさしく16年前のPC7そのままだ。だが、中身は刷新されていた。
海苔養殖舟の舟倉庫に偽装された小さな工場から台車に載りそのままスロープを下りれば海面だ。岸を離れた機体は白い航跡を引き速度を上げた。アツタ1200馬力の液冷エンジンが唸った。水面から機首が上がる。折りたたまれていた3枚のプロペラが命を得た花の如く開き回転を始めた。クラッチ操作は完璧だった。機体は完全に水面上に持ち上がり“PC7”はまたたく間に離水した。空には米軍の艦載機が舞っていた。
歓声が聞こえた。1929年のカルショット湾の歓声が・・。
S7機がその後どうなったのか、日米のいかなる資料にもその記録はない。
エピローグ
2013年12月4日付けの 信濃毎日新聞 東信地区欄の記事から
「北佐久郡御代田町広戸地区の農家 荻原重行さんの納屋で 変わった形の真っ赤な鋤が発見され話題となっている。重行さんは、おじいさんから、その鋤は物資の無かった終戦直後、御代田航空機製造からトラクターにつけるために購入したものであると聞いたことがあるという。おじいさんの話では 鋤はなんでも第二次大戦以前にイタリアで作られたものであるという。鋤にはかすかにイタリア語の文字が読み取れる。「なんか遠い時代の夢が膨らむね」と重行さんは空を見上げた。」
FINE
あとがき:
この物語は一部事実と虚構を織り交ぜたフィクションです。